四庫全書は四部作られ、その一つが瀋陽(奉天)にある清朝の離宮内の文溯閣に納められた。湖南は文溯閣を調査した際に作ったのがこの詩である。
 「縹緗(ひょうしょう)」とは、はなだ色と浅黄色のことで、その巾で書巻を包んだことから書物をいう。「部居(ぶきょ)」とは分類の一類のものを求めることで、第2句は、書物のすべてを集めて、分類したという意となる。「嘉蔭堂」とはこの離宮内に文溯閣とともにある建物をいい、この事業をなしとげた乾隆帝をしのんでいる。

 それでは何故、この七絶が虎(内藤虎次郎)から永澤(信之助、家内の母方の祖父)へ贈られたのであろうか。
まさに書物の重要性を意識して作られたこの詩は、永澤信之助の出版事業に関連して書いてよこしたとしか考えられない。信之助は京都で教科書出版事業をおこし、京大総長を務めたこともある小西重直に修身の教科書を書かせて成功したと聞いているので、その縁があって内藤湖南と知り合いになったのであろうか。

 いずれにしても、今まで読み解けないままにお蔵入りしていたこの作品が、この詩会のおかげで、読み解く機会が与えられ、内容がきちんと理解されて家宝に昇格したのは、まことに喜ばしい限りである。

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京都の生活 第158回 内藤湖南七絶の読み解き (2014..7.22)

 筆者が所属する「提壺吟社」では、毎月例会を開いて詩作を研鑽している。今回、主宰の大野先生の勧めで、我家で詩会を催すことになった。

 筆者を含めて16名が参集し、収容できるか心配したがなんとか会をひらくことができた。その際の出し物として、我家にある内藤湖南と狩野君山の書を披露した。

 両者ともに、京都大学文学部の支那学の創始者であり、湖南は史学を担当し、君山は文学を担当して一世を風靡した。

 ここに湖南の七絶のみを紹介するが、実はこの掛軸の読み解きに大変苦労した。なんとか清朝6代目皇帝の乾隆帝が行った『四庫全書』の事業を詠み込んだ内容とまでは分かったが、当日の大野先生の助言を得て、ようやく完成したのが、右の書き下し文である。

 偶然、6月29日に放映されたNHKスペシャルで、台湾の故宮博物館に保管されている『四庫全書』が取り上げられ、その重要性を認識できたおかげでこの詩の解析につなげることができた。